心和力とは
技のところにもかきましたが、心和力とは、普通のおわゆる「氣を相手に通す」のとは、まったく違います。単に氣を通すだけでも、「氣の起こす現象」のところで述べたように、簡単に相手を崩すことができますし、十分不思議な現象ではあります。そして、ほとんどの氣の武術は、この原理の応用であり、ある程度の、型と意識の稽古によって、この種の「氣を通す」技は、誰でも身につけることが出来ます。
しかし、心和力は、それとは全く質を異にしています。レベルの違いというものでもないように思います。心和力を働かせる場合には、実は、肉体ではなく、精神状態の変換が必要なのです。平常意識とは違った、特殊な精神状態(超意識)になる必要があるのです。これは、前頭葉の働き(表層意識)を超えた、調和のとれた、統一体としての意識ともいえます。心理学者ユングの説く、種としての意識、生物としての集合意識ともいうことが出来ます。私達には、個としての意識の下に、こう言った意識の大海が有ることが分かっています。心和力は、この部部への意識変換によって生まれてくるものなのかもしれません。そのため意識の同調作用が働くのでしょう。
それは、何かの力を働かせる意識、というより、何らかの力に包まれている状態とも言えるかもしれません。この状態は、言葉では非常に、説明しにくいものです。個我を捨てて(忘れて)、自然や宇宙との一種の共鳴、融和状態に入っている感覚とでも言ったらいいのでしょうか、この状態に意識を変換すると、自分という個の意識の境界線が無くなり、周りの空間に溶け込んでしまいます。かといって、自分という意識までなくなってしまうわけでは有りません。逆に、意識はより鮮明になり、周りの状況全体が感じ取れる状態になります。見て分かるのではなく、頭を介さずに分かる、感じるのです。結果、まさに、この精神状態の時にこそ、体全体から融合・和合の力、つまり私達の言う心和力があふれ出るように働いているのです。
そのため、通常の氣は、意志力で相手に働きかける(氣を通す)のですが、心和力には、意思で働かせるような、方向性はありません。体全体から無指向性にあふれ出るのです。自分の意識と、相手の意識との境界線がとれ、溶け合うようになるので、心和力を働かせた状態で、相手に向かい合えば、相手の攻撃は、手に取るようにわかり、相手が何かしようと思った瞬間に入り込み、後ろに回りこむことなど、いとも簡単に出来るのです。しかもこれは、考えて行動しているのではなく、相手の意思を感じると同時に、体が自然と動いた結果、そうなっているのです。通常、格闘技は、相手に負けたり、自分の思うようにいかなくなった時には、「相手が強すぎたからだ」とか「相手が汚い手を使ったからだ」とか「今日は調子が悪いからだ」などの理由を言ったりします。そして、非常に悔しがったりしますが、私達の道場では、技が決まらないときには、必ず自らの技・修練の未熟さを原因とします。それは、心和力を身に付けるという、精神的な修行が、最終の目標に有るからでなのです。原因を、自分以外の状況に求め、自らの心をないがしろにする者には、決して心和力は、身に着かないことを、皆が知っているからなのです。先ほどから、心和力には、他との意識を調和融合し、和合してしまう働きがあることを述べました。この心和力が、何故、融合・和合の力なのか、次のようなことからもわかります。
例えば、何か危害を加えようとして腕をつかんだ人に対しては、一瞬にして心和力が働き、その人の攻撃的な意識を消してしまい、腑抜けのようにしてしまいます。腕を持ったまま、その人は、何をしようとしていたのかを忘れてしまいます。当然勝負になりません。また、倒された人が、笑顔になるのも不思議です。また、心和力は触れていない人にも自然と、入り込んでいきます。心和力を持つ人の近くにいると、皆、穏やかな気持ちになります。当然、心和力を持つ人は、他人から意図的な危害を受けることがなくなり、守るという緊張感からも解放され、いつも穏やかで平和な環境の中で生活できるのです。人は、天地の理に適った、調和の心を持つことによって、天真爛漫に、おおらかに、そして充実した人生を送れるように出来ているのでしょう。まさにこれこそが、本当の護身術なのです。
私は、この心和力を、長年の名称修行から習得しました。一般的な技の修練と、氣の修練に加え、何か精神的な行が必要なのかもしれません。瞬間的な意識の転換は、瞑想という精神的修行によって、身についたように思います。興味のある人には、瞑想行のほうも、指導していきたいと思っております。
当面、この心和力を身に付け、深めていくことが、私達の目標です。今までにない、この心和力を修行する心和道こそは、全く新しい武道だと言えるでしょう。優しいだけではなく、強さも兼ね備えた平和的な人格を形する道でもあるのです。そして、この心和力を身に付けた人達こそ、これからの世の中に求められる、理想的な人達だと言えるでしょう。
私達、心和曾の護身術(心和道)は、相手を崩して倒す時も、倒してから抑え込むときも、相手が痛がることはほとんどありません。関節技などで、痛みを伴う押さえ込みなどは、必要ないのです。軽く触れてさえいれば、氣の力でほとんどの人は、動けなくなってしまうからです。仮に動けたとしてもその動きは、非常に限定的か、とてもスローになってしまいます。苦し紛れの反撃をしてとしても、攻撃とは程遠いものになってしまいます。氣で押さえ込むだけでもこの様ですから、心和力が使えればなおさらです。押さえつけられているのに、「気持ちよくて、動きたくない」とは、よく道場生が言う言葉です。また、筋肉痛にならない、気力が充実する、などもよく聞く感想です。
心和道は、稽古すればするほど、研究すればするほど奥の深い、それだからこそ遣り甲斐のある武道です。一生涯、豊かな気持ちで信念を持って歩むことの出来る道です。道主である私も尚、日々、修練の毎日です。私自身、心和道の道を富士山にたとえるならば、いまだ2合目か、3合目あたりを、必死になって登っている様なものではないかと思っています。今50歳ですから、死ぬまでに頂上にたどり着けるものかどうか、果たして頂上があるのかどうか、新たに見えてくる景色が、毎日楽しみです。
道場では、入門したての者であろうが、基本的に、道を求めて、真理を求めて、心和道を学びたいという者には、最初から私の知りうるすべてを教えています。奥義だなどと、もったいぶる気持ちはないし、もったいぶる必要も無いのです。知ったからとて、理解力が無ければ分からず、稽古しなければ出来ませんし、また、その時はわかったと思っても、理解が進めば、こういう意味だったのかと、奥の深さを何度も改めて知るものだからです。
長いとは思っていても、限りある人生。無駄にすることなく、内容の濃い、人様に喜ばれる、充実した人生にしていきたいものです。